2010年 11月 18日
今度は"勝(海舟)"や |
このブログ、当初は伊勢弁で始めたのを、すっかり忘れてしもうとった。伊勢弁で書くと、おんなじことでも柔らこうなる。やっぱり、なるべく伊勢弁で書くことにするわな。
さて、今日書こかちゅうのは、龍馬も惚れたという日本の夜明けに欠かせん人物の一人、勝海舟に因んだ話や。
断っておくが、ボクは学者でもないし、小説家でもない。いつもそうやが、ボクのいうことは、雑学と自分流の解釈で、きわめてアバウトや、と言うことや。
ただ、こんなもんを書こか思うたんは、龍馬もそうやが、べつに若いときから特段彼らに心酔してきたわけやないけど、最近話題になる彼らのことを知ると、比べもんにはならんが、不思議と自分の生きざまや考えに、よう似とるとこがあるなと、思うたもんでな。
大法螺吹きやったとも言われる勝さん、例えば、おこないはおれのもの、批判は他人がするもの、おれの知ったことじゃない、とうそぶき、図太く構えている。龍馬も辞世の句で「世のなかの ひとは、なにとも言わば言え、我がなすことは 我のみぞ知る」と同様の事を言い遺している。武者小路実篤の「この道より我を生かす道はなし この道をゆく」は、前に引き合いに出した。武蔵が、神仏は敬うが、神仏には頼らず、われが事をなすにおいては悔いず、というとるわなあ。これも同意や。禅にまなんどるんやな。
頑固で愚直やといえば言える。一方でまた、勝は言うとる。自分の価値は、自分で決めることさ。いくら辛くても、貧乏しても、自分で自分を殺すようなことはしちゃ~いけね~よ、と。また、事を成すには、愚直でなけりゃ~いかん、才走ってはうまくいかん、それになんでも大胆にならんといかん、難しかろうが、周りがどう思おうが、無我の境地に入って断行するに限る。とも言うとるんな。これは自分を信じとるいうことやし、プライドでもあるわな。
さらに学ぶべきは、井の中の蛙ではあかん、外にでれば視野が広がる、そうすりゃ固定的な常識を超えた考えも生まれる、と言うとることさな、一歩も二歩も高見に立ていうことやわなあ。
そこにはやな、世間の評判気にかけたり、他人の顔色伺うたりはせんで、狭い世間の常識や、固定的な考えに縛られやん、大きゅう目え開いたオトコのスケールの大きさが窺えるちゅうもんさ。龍馬も一緒やないか。
私事になるけども、ぼくが若い頃、まだ鉄のカーテン(ソ連の鎖国状態を言った)が開いて間もないソ連(今のロシア)を約一ヶ月にわたって訪れた事があったんや。出かけるとき、会社の創設者であるH氏が1$なんセントかの餞別(1$なにがしかの餞別には正直がっかりしたけどナ)をくれて「病気をせんと帰って来たら80点や、大陸でしょんべん(小便)してくるぐらいの気持ちで行ってこい」と言うて緊張を解いてくれた。フツーなら、またとない機会や、しっかり見てこいの、勉強してこいの、言うのに、そんな事一切言わなんだのには、びっくりした。やはり「禅」に関わっておった人やったんや、これは俗物やないなと感心した記憶があるわな。
ぼくの嘗ての上司?、親方やった人は無学ではあったけれども、いわゆる常識を超えたスケールの大きさと優しさがあって、私は尊敬しとったし、多くを学んだ。
今と違うて、嘗ての土木現場なんて、いろんな人間が出入りする職場や。それでも、どんな人間であろうと、来る者は拒まず、去る者は追わず、を通した人やった。彼は、恒に変わらず無私無欲で、差別なく人の面倒トコトンン見た人やった。厳しいけども、ふところが大きく、優しい心の持ち主でもあったなあ。
勝も、途方もないほどに並はずれて、剛胆な反面、情にも厚かった。江戸城明け渡しのときには、敗者の幕臣の処遇や、江戸庶民の安全に配意し、身体を張って西郷と談判している。強いオトコは優しいんさナ。
また、社会の事は学問をして分かるもんやない、社会で体験して分かるし、自分の考えも固まる、とも言うとるがな。世間で、さすが苦労人や、というのはこうした人たちのことやんな。
勝は、心すべき生き方として「超然(世俗的なことにこだわらない)」「靄然(心持ちを柔らかく保つ)」「澄然(心が清く澄みわたっている)」「断然(きっぱりとしている)」「泰然(物事に動じない)」の、五つの然(状態)を言うとるにな。これは、茶道の心とされとる「四規」の「和敬清寂」に通じる。まあ、おんなじやわなあ。これも、もともとは禅語やし、勝が自分流に言うとるだけのことやと思うわ。
そうあるべし、そうありたいと思う大事なことやけど、身に付くのはなかなか容易ではないわな。
しかも、ある意味で世間の常識に逆らうわけやから、一般には容易には受け入れられへんし、批判もされる。疎ましがられ、時には敵もつくる事になり、いのちを狙われる。龍馬も、勝もそうやった。
それでも、敵は多い方がええ、ちゅうて、自分の夢や信念を曲げなんだんはスゴイなあ。
そんな勝が、外の事はどうにでもなるが、うちの中は難しいと、意外と気弱な一面も見せとるんやな。まあ、家族は大事やということを言うとるんやけどなあ。事実、晩年は子供の不幸や孫の非行のことで随分悩んだらしい。
76歳で此の世を去るとき遺したことばが、 「コレデオシマイ 」や。 傑作やなあ。
さて、今日書こかちゅうのは、龍馬も惚れたという日本の夜明けに欠かせん人物の一人、勝海舟に因んだ話や。
断っておくが、ボクは学者でもないし、小説家でもない。いつもそうやが、ボクのいうことは、雑学と自分流の解釈で、きわめてアバウトや、と言うことや。
ただ、こんなもんを書こか思うたんは、龍馬もそうやが、べつに若いときから特段彼らに心酔してきたわけやないけど、最近話題になる彼らのことを知ると、比べもんにはならんが、不思議と自分の生きざまや考えに、よう似とるとこがあるなと、思うたもんでな。
大法螺吹きやったとも言われる勝さん、例えば、おこないはおれのもの、批判は他人がするもの、おれの知ったことじゃない、とうそぶき、図太く構えている。龍馬も辞世の句で「世のなかの ひとは、なにとも言わば言え、我がなすことは 我のみぞ知る」と同様の事を言い遺している。武者小路実篤の「この道より我を生かす道はなし この道をゆく」は、前に引き合いに出した。武蔵が、神仏は敬うが、神仏には頼らず、われが事をなすにおいては悔いず、というとるわなあ。これも同意や。禅にまなんどるんやな。
頑固で愚直やといえば言える。一方でまた、勝は言うとる。自分の価値は、自分で決めることさ。いくら辛くても、貧乏しても、自分で自分を殺すようなことはしちゃ~いけね~よ、と。また、事を成すには、愚直でなけりゃ~いかん、才走ってはうまくいかん、それになんでも大胆にならんといかん、難しかろうが、周りがどう思おうが、無我の境地に入って断行するに限る。とも言うとるんな。これは自分を信じとるいうことやし、プライドでもあるわな。
さらに学ぶべきは、井の中の蛙ではあかん、外にでれば視野が広がる、そうすりゃ固定的な常識を超えた考えも生まれる、と言うとることさな、一歩も二歩も高見に立ていうことやわなあ。
そこにはやな、世間の評判気にかけたり、他人の顔色伺うたりはせんで、狭い世間の常識や、固定的な考えに縛られやん、大きゅう目え開いたオトコのスケールの大きさが窺えるちゅうもんさ。龍馬も一緒やないか。
私事になるけども、ぼくが若い頃、まだ鉄のカーテン(ソ連の鎖国状態を言った)が開いて間もないソ連(今のロシア)を約一ヶ月にわたって訪れた事があったんや。出かけるとき、会社の創設者であるH氏が1$なんセントかの餞別(1$なにがしかの餞別には正直がっかりしたけどナ)をくれて「病気をせんと帰って来たら80点や、大陸でしょんべん(小便)してくるぐらいの気持ちで行ってこい」と言うて緊張を解いてくれた。フツーなら、またとない機会や、しっかり見てこいの、勉強してこいの、言うのに、そんな事一切言わなんだのには、びっくりした。やはり「禅」に関わっておった人やったんや、これは俗物やないなと感心した記憶があるわな。
ぼくの嘗ての上司?、親方やった人は無学ではあったけれども、いわゆる常識を超えたスケールの大きさと優しさがあって、私は尊敬しとったし、多くを学んだ。
今と違うて、嘗ての土木現場なんて、いろんな人間が出入りする職場や。それでも、どんな人間であろうと、来る者は拒まず、去る者は追わず、を通した人やった。彼は、恒に変わらず無私無欲で、差別なく人の面倒トコトンン見た人やった。厳しいけども、ふところが大きく、優しい心の持ち主でもあったなあ。
また、社会の事は学問をして分かるもんやない、社会で体験して分かるし、自分の考えも固まる、とも言うとるがな。世間で、さすが苦労人や、というのはこうした人たちのことやんな。
勝は、心すべき生き方として「超然(世俗的なことにこだわらない)」「靄然(心持ちを柔らかく保つ)」「澄然(心が清く澄みわたっている)」「断然(きっぱりとしている)」「泰然(物事に動じない)」の、五つの然(状態)を言うとるにな。これは、茶道の心とされとる「四規」の「和敬清寂」に通じる。まあ、おんなじやわなあ。これも、もともとは禅語やし、勝が自分流に言うとるだけのことやと思うわ。
そうあるべし、そうありたいと思う大事なことやけど、身に付くのはなかなか容易ではないわな。
しかも、ある意味で世間の常識に逆らうわけやから、一般には容易には受け入れられへんし、批判もされる。疎ましがられ、時には敵もつくる事になり、いのちを狙われる。龍馬も、勝もそうやった。
それでも、敵は多い方がええ、ちゅうて、自分の夢や信念を曲げなんだんはスゴイなあ。
そんな勝が、外の事はどうにでもなるが、うちの中は難しいと、意外と気弱な一面も見せとるんやな。まあ、家族は大事やということを言うとるんやけどなあ。事実、晩年は子供の不幸や孫の非行のことで随分悩んだらしい。
76歳で此の世を去るとき遺したことばが、 「コレデオシマイ 」や。 傑作やなあ。
by kentians
| 2010-11-18 22:47
| こころの詩