2011年 01月 30日
愛の詩 Ⅱ |
嫌なもんは嫌や、と言う方はお読みにならないでくんしょ。
その一
過ぎし日の 恋より激し 吾が思い いかにせむとて ちぢに乱るる
老いてなお 激しく燃える愛のうたや、読み人は、某氏と言うにとどめおく。
おお 若いの~、と言う人もおれば、ええ歳して、なんて言うひともおる。でもこの心意気こそ讃えるべし!
その二
かんらから ぬえくさの女(め)は 崩(く)ゆらぬと 世の限りまで ぬえくさの女は
古事記にある、「古りにし 嫗にしてや かくばかり 恋に沈まむ 手童のごと」
(ふりにし おみなにしてや かくばかり こいにしずまむ たわらはのごと)~
~年老いたおばあさんのくせに、これほどまでに恋におぼれるものでしょうか、
まるで小娘のように~~という石川女郎さんの歌に、「いいえ、女は最後まで女でいたいものよ」と、いう
写俳のメンバーのおひとりの女性が、自分の思いを詠まれた歌やわな。
かんらから、とは、豪快な笑いを表現したことば、
ぬえくさとは、たおやかな女性のたとえ
崩ゆとは、朽ちると言う意味
いつまでも 女である自分を失わないでいたい、と言う思いを詠んでいる。その一に同じや。
その三
一期一会があるなれば
今宵の杯を別れに割って
去り行くあなたと手を振って
それじゃあまた
と別れます
さういう覚悟があったなら
未練というものさらになく
ひと日一日は格別に
何だか光って見えまする
あなたと私が会う奇跡
生きているとはそんなこと
他には何にも価値が無い
この詩を詠んでるひとも 写俳のメンバーや
あなたと私が会うことは奇跡や、これを大切にすることこそ、生きている価値や~というんやなあ。
人生、今をこそ大事にしなけりゃ~あかんわさあ、という、ことやな。
この三つの愛の詩、どないに感じて貰おうと勝手ですが…、
一つだけ言うとくと、共通するのは、世界に一人しかいない自分に、正直に生きる人間の本音を、高らかに謳うとると言うことと、二度とない人生やないか、いうことやわ。
人の顔色気にしたり、うわべのカッコばっかりで、本音隠して仲良ししてて、あぶくのような楽しみだけで、それでほんまに満足か?
この世に生まれて消えてゆく、たった一人のひととして、人生それでええんかな?
ぼくは、ええとは思わへん。残り少ない人生や、どこかで誰かがひそひそと、なんと言おうが思おうが、ぼくは本音で生きたいなあ。
まっつぐ歩いて躓いて、こけることなど気にならへん、もうもう、とっくに慣れとるも~ん。
あしたにお迎えくるまでは、少々ぐらいは傷ついて、疎まれようが、嗤われようが、生きてなんぼの人生やんか。
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by kentians
| 2011-01-30 11:33