2012年 09月 21日
「絵画展を」終えて |
今年の第47回創風社展も盛況裡に終わった。
ところで、作品発表をしている画展で「志風さんの絵は、すぐに分かる」と言われると、一瞬えっ?と、いささか戸惑うことがある。
素直に、自分の作品を、個性ある作品として認めてくれて居るのだ、と思えば、それでいいのであろう。
ただ、作家・アーティストとしてのプライドを保つものなら、多分同じではないかと思う理由がある。
日進、と言う言葉がある。日々進歩がなければダメだということ。
絵が型に嵌っていて進歩がない、と見られているのではないか?と言う自己検証の上での焦り?要はマンネリ化してはいないか、と言う反省。
いつも描いている時は、愉しくて心地よいけれど、出来上がったものをみると、大抵は満足がいかない。それが普通だろう、と平素そう思ってはいる。
様によりて胡廬を描くな、と言う諺もある。真実を描かず、様式に依って胡廬(瓢箪)を見かけだけで描いていてはだめだ、ただ先例に倣って、独創性のない絵をかくな、と言う画人への戒めである。
職人ではないのだから、ひとの真似はすまい。お仕着せの型に嵌るまい、媚びまい、慣れっこになって同じことの繰り返しはすまい、そう自分に戒めてもいる。
だから、すぐに分かるといわれると、イコール進歩がない、と言うことではないか、そういう自省や自身への嫌悪感?が、ふと戸惑わせるのだろう。
そんな思いをしながら、清風一門展を終えた。
この会はもともとが南画系である。彩も施すこともあるが、基本は水墨画、墨主体の絵画である。主宰者は、塗り込み(彩色日本画)も、試みられるので、近頃は会員の絵も墨が少なく色物が多い。
私は、墨にこだわっている。
水墨画は奥が深い、峰が高いと言った方が良いのかも知れない。
われわれの接する現実の世界は「彩色の世界」である。見た目が好い絵を描くだけならば、彩色を施して描くに越したことはない。
うわべではなく真実を描く、裡なるものを描こうとするとき、墨がいちばん相応しいと言うのが私の立場である。墨色に魅せられたと言ってもいい。
紙の白に墨の黒の絵は、ただのモノクロームではなく、墨の黒は、単なるブラックではないのである。
墨に五彩有り、と言われる。墨の濃淡で色の世界を表現できると言うことである。
さらに、ぼかしやかすれ、にじみ、線の硬軟、太細といった表現で味わいが出せる。
こんなに、難しくも愉しい絵画は他にないと思うのが私の立場である。
あくまでも、私の立場であるから、論じても始まらない。
裡なるものを描くと言うことは精神性が高いと言うことを意味する。見た目のきれいさや技巧よりも、内面性が問われるから確かに難しい。
だから、どうしても、師匠や先例に倣うと言う安易な径を選択する。確かに先例に倣いその技を伝承することも大切には違いないが、とどまっていては、単なるコピー、クローンであり、職人にすぎず、独創性がなければ、画人とは言えないと、私は思っている。
偉そうに言っても、容易くはない。容易くないからやりがいもある。これは、私の美意識、価値観にもとづくものだから、受けなくっても仕方がない。
孤独であっても、わが径を行きたい。
ただ、地味で、一見見栄えのしない墨の絵が、時代から取り残されたようになっているのが、気になる。ナントカして、この素晴らしい日本の誇れる簡潔純粋な絵画を再生させて、若い人の心にも受け入れられる様にできないものか、こうして、老骨、病身に鞭打って日々生きている私である。
ミスで公開が大変遅くなりました。申し訳ありません。
ところで、作品発表をしている画展で「志風さんの絵は、すぐに分かる」と言われると、一瞬えっ?と、いささか戸惑うことがある。
素直に、自分の作品を、個性ある作品として認めてくれて居るのだ、と思えば、それでいいのであろう。
ただ、作家・アーティストとしてのプライドを保つものなら、多分同じではないかと思う理由がある。
日進、と言う言葉がある。日々進歩がなければダメだということ。
絵が型に嵌っていて進歩がない、と見られているのではないか?と言う自己検証の上での焦り?要はマンネリ化してはいないか、と言う反省。
いつも描いている時は、愉しくて心地よいけれど、出来上がったものをみると、大抵は満足がいかない。それが普通だろう、と平素そう思ってはいる。
様によりて胡廬を描くな、と言う諺もある。真実を描かず、様式に依って胡廬(瓢箪)を見かけだけで描いていてはだめだ、ただ先例に倣って、独創性のない絵をかくな、と言う画人への戒めである。
職人ではないのだから、ひとの真似はすまい。お仕着せの型に嵌るまい、媚びまい、慣れっこになって同じことの繰り返しはすまい、そう自分に戒めてもいる。
だから、すぐに分かるといわれると、イコール進歩がない、と言うことではないか、そういう自省や自身への嫌悪感?が、ふと戸惑わせるのだろう。
そんな思いをしながら、清風一門展を終えた。
この会はもともとが南画系である。彩も施すこともあるが、基本は水墨画、墨主体の絵画である。主宰者は、塗り込み(彩色日本画)も、試みられるので、近頃は会員の絵も墨が少なく色物が多い。
私は、墨にこだわっている。
水墨画は奥が深い、峰が高いと言った方が良いのかも知れない。
われわれの接する現実の世界は「彩色の世界」である。見た目が好い絵を描くだけならば、彩色を施して描くに越したことはない。
うわべではなく真実を描く、裡なるものを描こうとするとき、墨がいちばん相応しいと言うのが私の立場である。墨色に魅せられたと言ってもいい。
紙の白に墨の黒の絵は、ただのモノクロームではなく、墨の黒は、単なるブラックではないのである。
墨に五彩有り、と言われる。墨の濃淡で色の世界を表現できると言うことである。
さらに、ぼかしやかすれ、にじみ、線の硬軟、太細といった表現で味わいが出せる。
こんなに、難しくも愉しい絵画は他にないと思うのが私の立場である。
あくまでも、私の立場であるから、論じても始まらない。
裡なるものを描くと言うことは精神性が高いと言うことを意味する。見た目のきれいさや技巧よりも、内面性が問われるから確かに難しい。
だから、どうしても、師匠や先例に倣うと言う安易な径を選択する。確かに先例に倣いその技を伝承することも大切には違いないが、とどまっていては、単なるコピー、クローンであり、職人にすぎず、独創性がなければ、画人とは言えないと、私は思っている。
偉そうに言っても、容易くはない。容易くないからやりがいもある。これは、私の美意識、価値観にもとづくものだから、受けなくっても仕方がない。
孤独であっても、わが径を行きたい。
ただ、地味で、一見見栄えのしない墨の絵が、時代から取り残されたようになっているのが、気になる。ナントカして、この素晴らしい日本の誇れる簡潔純粋な絵画を再生させて、若い人の心にも受け入れられる様にできないものか、こうして、老骨、病身に鞭打って日々生きている私である。
ミスで公開が大変遅くなりました。申し訳ありません。
by kentians
| 2012-09-21 22:01