カテゴリ:こころの詩 |
|
ブログパーツ
※この時計の時刻は、閲覧しているパソコンのものであり、必ずしも正確な時間とは限りません カテゴリ
最新の記事
最新のコメント
以前の記事
2012年 05月
2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 外部リンク
お気に入りブログ
WEB リンク
最新のトラックバック
ファン
|
2011年 10月 23日
今日は、今日の写俳ブログにUpされているHさんの写俳を拝見し、心打たれたのでページをお借りして記事にすることにした。タイトルもそのままお借りした。
「身に入みる言葉残して出稼ぎへ」 Hさんの句 ![]() 昔は、といってもそんなに遠い時代ではないころ、日本は貧しかった。貧しいが故に、家族のために、家族をのこして一人出稼ぎに行かざるを得なかった人々は沢山いた。ここに残る言葉は、そうした出稼ぎの一人が家族に対して書いた言葉でもあり、自分に対して言い聞かせた言葉もある。 貧しさや、蔑みに負けず全うに生きようとする人間の志の高さが窺える、含蓄のある言葉の数々である。たびたび書いたように、私も同様の境遇にあった一人として心に沁みるし、共感するところが大きい。 ・ 侮辱されても 笑って受け流せ ・ 笑って通ろう 歌って過ごそう なんとポジティブな生き方だろうか ・ 踏み倒されても 歯を喰いしばって忍べ ・ 叩かれて そこで賢くなるのだよ ・ 一輪の花でさえ 風雪をしのいでこそ 美しく咲いて薫るのだよ 悔しさをバネにする、いわゆる「根性」とは、違った強さが感じられる。 ・ 二度と通ることはない この道 ・ 二度と通らぬ 今日というこの道 今と言う時は、又と来ないのだ。今日、今を、大切に生きなければ、という思いは、私のモットーでもある。 ・ どうしてうかうかおってなろうか(* ぼ~としておられようか の意か) 今の日本は、異論はあろうが、嘗てのように貧しくはない。貧しくはなくなったのに、国も、社会も、人々も大きく変わって、大切なものを失ってしまったようだ。 私も、貧しさと戦い、蔑みにもくじけずに歯を食いしばって生きてきた。長じて、すべてのこうした辛さの根源は「貧しさ」と「無知」にあると知って以来、社会運動にも参加した。 たしかに今日、経済的には豊かになったが、何か大切なものが失われているように思えてならない。単身赴任のような、形を変えた「出稼ぎ」は今もあるし、「貧しさ」と「無知」は、今もあるように思う。 ・ どうして うかうか おってなろうか この家のあるじは、嘗て書き記した板を、いまもこうして壁に打ち付けて残しておられる。 いま一度、噛みしめてみたい言葉ではないだろうか。 * Hさん ありがとうございました
2011年 10月 15日
早いもので、あの公園で無心に遊ぶ子供達の様子を、
記事ににして、2ヵ月、 全くの不登校ならぬ不投稿のままに過ぎてしまった。 その間、ご訪問下さった方には全く申し訳なく思っています。 ![]() あの公園の噴水、もう止めてもよかろう、と思うのだけれど… もう、子供達はもとより、人影はまったくない。 でも、噴水は変わらず勢いよく跳ねている。 あれから、秋が立っても当分は異常な暑さがつづき、 台風後も、まだ夏なのか、秋になったのか? そんな日が繰り返されるうちに、なんとなく秋めいてきた。 ![]() 「小さい秋見つけた」という歌がある。 小さい秋とは、今のような時期をいうのだろうか? 小さい秋見つけた 【作詞】 サトウハチロー 【作曲】 中田喜直 1.だれかさんが だれかさんが だれかさんが 見つけた 小さい秋 小さい秋 小さい秋 見つけた 目かくし鬼さん 手のなる方へ すましたお耳に かすかにしみた 呼んでる口笛 もずの声 小さい秋 小さい秋 小さい秋 見つけた 2.だれかさんが だれかさんが だれかさんが 見つけた 小さい秋 小さい秋 小さい秋 見つけた お部屋は北向き くもりのガラス うつろな目の色 とかしたミルク わずかなすきから 秋の風 小さい秋 小さい秋 小さい秋 見つけた 3.だれかさんが だれかさんが だれかさんが 見つけた 小さい秋 小さい秋 小さい秋 見つけた むかしのむかしの 風見の鳥の ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ はぜの葉あかくて 入日色 小さい秋 小さい秋 小さい秋 見つけた この歌は多くの人々に親しまれ、口ずさまれている。 秋は何となくもの哀しく、もの想う季節である。 私も、秋に相応しく情緒があってこの歌は好きである。 小さい秋という措辞は、情感豊かだけど、 なぜ、小さい秋なのか、歌詞を諳んじながら、考えた。 ![]() 小さい秋というのは詩人の造語であるが、 小さい秋があれば、大きな秋もあろう。 大きな秋は、誰の目にも、ああ秋だなあ、と感じる秋。 小さい秋は、何となく秋めいてきたなあ、と感じる秋、 それに、誰もが感じる秋ではなく、特定の誰かにしか見えない秋、 だれかさんの心のなかに生き続けている秋ではないか。 詩人は、だれかさんだけの想いでの中に 秋をみつけたにちがいない。 それは、だれかさんだけの、懐かしい、 或いは哀しい秋だから、小さい秋なのではないだろうか。 サトウハチローは幼くして、慕っていた母と離別している 幼い頃の様々な記憶が、母への想いとともに 郷愁となって、この詩が生まれたのだろう。 だれもが、自分だけの思い出がある。 そんな想いを、小さい秋として、詠いあげたのだろう。 私にもある、そんな小さい秋を、わたしも探しに行こうと思う。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
2011年 06月 09日
月日の経つのは早いというが、このページを空けてもう三ヶ月余りが経って仕舞っている。
体調不良が主な要因とは言え、無為にすごした日々のなんと空しくて、勿体ないことだろう。 そもそもが、最悪の体調不良のためやけど、この間に、親しき友がまた一人逝き、夢か現か解けぬ想いも梅雨の合間の片結びに終わるなど、何がなにやら、分からぬままに、どつぼに嵌って、ドッピンシャン。孤独を愉しむったって、そんな贅沢言っておれるさまやおまへんのや。 ![]() 今時の人は「どつぼ」も知らんらしい。 ぼくらが子供のころは、田圃のすみに人糞を入れて溜めておく大きな甕が埋けてあったんや。田の肥料にするためで、ええ有機肥料やが、今は科学農薬に変わって姿を消した肥溜のことで、野壷とも言うたらしい。「どつぼ」の語源ははっきりせんが、のつぼが訛ったのやないか?っていわれてる。 そいで、「どつぼ」に嵌るって、どんなことや?って??? 想像してみて欲しい。わかるやろ、こんなとこへ嵌ったらどうなる?パニクって、どだい、ワヤ(めちゃくちゃ)やで…。にっちもさっちもいかん、いうことですわ。 三十年以上も前に患った膠原病の後遺症、十数年に亘る後縦靱帯骨化症という難病との付き合いは、向き合っていかねば仕方がないと、自分に言い聞かせてはいるものの、痛い、痺れる、気分が悪い、思うように動けない。やらんならんことがある。描かんならんし、描きたいけど、描けん。気力も萎えて、やる気も起きん。自分をどづいてみても、やれん。むかつく、いらだたしい。どこかへ、逃げていきたくなるが、それもできん。カネもない。 繰り返し報道される震災被災地、津波のようす、原発の推移見ては、泣き、喚き、これ震災ナントカ症候群っていうんやて、こいつがまた悪さに輪かける。チャンネル変えると、国会中継、あいも変わらん猿芝居、kもOもTも顔みるだけでむかついてくる。 「国難」やて?、どこ見て言うとんのゃ、永田町なんかにおらんと被災地へいってやれ、あほたれ!と、こんなときだけは、頭も冴えて、元気になる。不思議やなあ~。 ![]() こんなことなど、誰にも分からんから、人前では、つとめて外面(そとづら)を好くして気張っている分、うちに入ればド~っとくる。完全にアウトになるんや。もう、どつぼもええとこや。しゃ~ないなあ。 老いのひととき、大まじめ、夢か現か解けぬ想いもさみだれに消えて侘びしい片結び、こいつも結構応えるし、ああ、神様、仏様。死んだ母ちゃんが出てきたりして…。 がんばれ!がんばるいうことばは、嫌いなんやけど、そんなら、他になんかエエ言葉あるか?見つからんから、これもしゃ~ないなあ。 野辺の草花はやっぱりつよいし、美しい。そんならオレも、ぼちぼち、がんばるしかないか、と思う。
2011年 03月 01日
Mさんとの最後のお別れの日は、珍しく雪だった。
![]() 生前、派手な葬儀はするな、と言っていたようだが、告別式には、彼のお人柄であろう、多くの人が雪の中を参列していた。 「わしに、もしものことがあったら連絡だけしてくれないか」と、Mさんにメモを貰っていたので電話で訃報を告げたとき、件の女性は「わざわざ、お世話をおかけしました」とだけ言って電話を切った。 面識はないから、参列しているかどうかは、ぼくには分からない。 出棺の時が迫った。 棺のまわりに身内や親しかった人が寄って、切り花でMさんの周りを埋めつくすようすをぼくはぼんやり、眺めていた。 やがて、「もう、よろしゅうございますか」と、斎場のの係が言った。ぱらぱらと人々が棺のそばから離れたとき、ひとりの女性が足早に棺の傍らに寄り添うと、持参の白梅の枝をMさんの手に差し向け、ゆっくり合掌し終わると、静かに席に戻る様子を見ていて、ぼくの胸は変に高鳴った。梅ヵ゜枝? 七十も半ばのように聴いてはいたが、若々しく見えたし、品のいい落ち着いた風情のご婦人だった。例の女性だな、と直感した。 ![]() 別れを惜しんで出棺を見送る人たちから、一人離れてかの女性は立っていた。群れの端にいたぼくと眼が合ったとき、軽く黙礼されたので、ぼくも返した。Mさんからぼくのことを聞いており、何かでぼくの顔を見知っておられたのだろう、と瞬間、ぼくは察した。 まもなく出棺の時が来て、人々が最後の別れに霊柩車の傍へ移動したあとも、一人離れて佇み眼鏡の下からハンカチでそっと目頭を押さえている様子を、ぼくは見るともなしに、見やっていた。 長い合図の警笛を鳴らして静かにクルマが動きだし、斎場をあとにしかけたとき、彼の女性が右手にしていたハンカチを頭上で大きく振る姿をみた。なんども、なんども…。 それはそれは、美しい光景で、印象的だった。まるで、テレビドラマのシーンを見るような…。 ![]() ざわざわと、見送った人々の群れが崩れ出したとき、ぼくは先ほどまで女性がいたところから、すでに、姿が消えているのに気づいた。 数日して、女性からメールが入った。 「先日は、お気遣いありがとうございました。ご挨拶もせずご無礼を致しまして、申し訳けございません。 主人も、Mさんとの私の清い交友は承知していまして、勧めてくれましたので、お別れに参りました。 Mさんは、よき友であり、時にはよき師であり、心から尊敬しておりました。いつも、暖かく接して下さり、人生終盤に、人として好い夢を叶えて下さった、と嬉しく思っております。 志風様のこともよく話題になり、いつも褒めておいででした。 あなた様も、お淋しいでしょうけど、ご自愛、御身お厭いなさってお過ごし下さいますように」とあった。 Mさんは、我が道を歩み、悔いない人生に満足しておられたんや、と得心するとともに、「わしは、いま恋をしとるんや」と嘯いて(うそぶいて)いた、Mさんの純粋無頼の素顔を見た思いがして、あらためて、惜しい人を失った哀しみにくれたのである。 心からご冥福を祈りたい。 <合 掌>
2011年 02月 25日
断っておくが、Mさんは先日黄泉の国へ旅立たれている。
でも、ぼくは生前のMさんを偲んでいると、余りに自分の生き様や、想いに重なることが多くて、つい2,3年前に、ここに書いた記事のあれこれを思いだしてしまう。 軽率の誹りは免れないと、反省はしているが、あまりにも、自分に正直に、真っ直ぐな生き様を開陳したことで、いくら価値観の違いとは言え、世間の一部では、必ずしも素直な理解は得られず、結果、疎外感を味わったことを思い、複雑な気分になる。 Mさんは、そんなぼくのよき理解者であり、励ましを下さった人である。 ![]() ともあれ。Mさんは、奇しき出逢いを、もう60年近い年月が経っているのに、青年のように胸ときめかせた、と言う。しかし、相手さんにも家庭がある。これまでの、それぞれの人生もあるし、今の暮らしもある。焼けぼっくいに、火が付くというような、ドラマのような訳にはいきまへんわなあ。第一、歳も歳やんか。 ただ、Mさんは、失われた過去は過去として、残り少ない人生、失ったものを少しでも得たいと言う思いがあったんやろな、としんみり言うたことがある。 次第に、自分の生き様を彼女と話をするうちに、彼女も心開き、うち解けて共感し、Mさんもまた、彼女の生き方に共感して、新たな愛を感じるようになった。 彼は聡明な人やし、相手の女性も聡明やった。かつてのお付き合いは、遠い過去のこと。でも、なにか、互いに心通うところがあったんやろな。敬愛のもとに、老いの分別ある付き合いが始ったんや。Mさんの言う、新しい人生のスタートとは、こういうことやったんや。 もう、若いころの情愛とは違った、良寛さんの愛語に似た、爽やかなもんや、確かな友情やなって、眼を細めて言うてたMさんを思い出す。 彼の言うには、いくら長年添うた間でも、すべて充足する夫婦なんてあり得ない。そこを惰性で生きるか、すこしでも、満たされないとこを埋めたいと思うかの違いはある。わしは我が儘かも知れんが、限られた人生なら、日々悔いのう生きたい、だから、あとの道を歩んだだけのことさ。夫婦が築いてきたもんを壊すわけでも、女房を無視する訳でもないんやでな。道に外れたことをするわけでもない。 志風さん、あんたの生き様に共鳴して、応援歌歌うてきたんも、そういうこっちゃ、と言って笑っておいでたなあ。人がなんといおうが、Mさんは心の広いお人やった、ぼくは思う。 そんなMさんやから、奥さんにも、素直に彼女との付き合いの様子のすべてを、隠すことなく、素直に話していたと、と言う。疚しい男女の関係やないと言う、自負があったからやろな。 だが、納得は得られんかったらしい。奥さんもよくできたお人やと伺っていたが、あるとき「あなたは、女心が分からないひとや」と言われたらしい。いくらよく出来たおひとでも、女のジェラシーってやつやったんかなあ。 Mさんは、女心が分からんで女と付き合いができるか、と思い、そういうきみは、男心が分かっているのか?と、口をついて出かかったけど、その言葉は飲み込んだと言う。 結局は、Mさんは彼自身がよく言うたように、孤独のうちに亡くなったのかなあ。 いや、孤独でなかったと、ぼくは思うてるけど。 ![]() 彼が言うた、いくつかの言葉が、耳に残る。 「人は独りで一つの穴から出てきて、またひとりで穴に入るんや、孤独なもんや」 「孤独やけども、独りでは生きてはいけへん」とも言うた。 「男はいつも満ち足りていたいんや、せやで、少々危ないことでも躊躇わんと、更に一歩を踏み出すんや、しようがないな~」 「愛護ってなあ、きみ!相手の生き様に共感する心なんやぜ、恋も同じや。共感から生じる相手を慈しむこころなんやぞ。良寛はみずからそれを実践した。生あるもの皆等しくな、こんな、美しいものはない。わしは死ぬまで恋していたい。 この、素晴らしいときめきを、世間態気にして、なんで、押し殺して生きんならん?」 Mさんの生き様は純粋そのものや、せやけど、この傍若無人、我が道をゆくがごときは、俗世では無頼に映るやも知れん。Mさんは、敢えて言うておられた。「わしは、純粋無頼な男や」と。 <つづきます>
2011年 02月 18日
過日、伊勢路では、珍しい二度目の雪が降った。
寒が明けてからの雪は、春が近いというけれど、 まだ、春は遠い そんな気がする、寒さやな~。 ![]() 降る雪の暗い空を見上げながら、過日亡くなった、ぼくがこころ許していた知人のMさんのあれこれを思い出しとった。こころの広く暖かい人で、博識やったし、常識人でもあり、人からも慕われ、尊敬もされとったわな。不思議と何かぼくと心通じるとこがあって、親しうしてもらっとった。 まあ、少し、普通の人と違うところがあると言えば、言える、変わっとったとこがあった。 バランス感覚はあるのに、愚直なほどに自分には正直に生きたくて、ええ加減な妥協はせんと、孤高にふさわしい生き方しとったいうとこかな~。 ぼくに似て、ぶきっちょ人生送ったひとやった。ぼくの生き様にも、理解をしてくれて、ときに揺れるぼくの心を励ましてくれたこともある。 彼は、自分のことを「純粋無頼」と評した。以来、彼の生き方に共感するぼくは、自分のことを「純粋無頼」と言って、開き直ることにしとるんやけどな。 ![]() そのMさんが「わしは、いま恋しとるんや」と、マジメに、しかも平然と笑うて言うたときは、ぼくも驚いたんな。 人を恋うるって、自然なことやが、憚らんならん恋もあるやろ。Mさんは女房持ち、聴くと相手も人妻や言うのやから、穏やかではないわな。でもMさんは「わしの恋は、きみ、そんじょそこらの色恋やないぜ。愛語やでな、憚る必要はないんや」と言い切った。 彼は、世間で言う色恋ではのうて、愛語やと言うんやが、敢えて恋や言うて憚らなんだとこが、違う思うたね~。 いずれにしても、80歳にして「恋」してたんやから、ぼくは、Mさんは幸せな人生やなかった、と思うてる。 彼には、若い時、生涯でたったいちど こころから惚れた人がおいでたんやて。 よくある話やが、いろんな事情があって、彼の想いは実らなんだ。悔いも残ったという。でも、生きなければならなかった彼は、哀しみを胸に秘めて、必死に生きた。 失意は、むしろ彼を振るい立たせたんやな。年月を経て、その後得た家庭の平和な日々は続いた。彼の、ひたむきな努力があったことは、当然のことやわな~。 そして、人生も終盤に近いある日、奇しきめぐり逢いというか、嘗ての想い人と再会された。このめぐり逢いは、Mさんにとって新たな人生のスタートにもなったという。 <つづきます>
2010年 12月 23日
桐一葉 おとして逝きぬ 冬のそら ふうこ
![]() 寒さに打ち震えながら 歩いていた風の小径 いち羽の雉子が 足元から急に飛び立ち 驚いたように 桐の残り葉が 舞って落ちた あのときだったのか きみが身罷ったのは… 悪いしらせは のちほど聴いた ぼくといっしょで 病んではいたが 気にしてもしようがない と 明るくふるまうきみだった 経過もいい と言っていたきみが こんなに 急に逝くなんて 語りかければ 楽しく相手をしてくれた きみ 軽い冗談を言っては 笑わせてくれた きみ 遠くをみるような目で 優しいことばをかけてくれた きみ 自分よりも ひとのことを いつも 気にかけてくれてた きみ 生あるものは いつかは滅ぶのだけど もう少しは生きていようよ きっと好いことがあると 言い交わしたよな そうだろう ぼくと きみとは よく気があった なんとあっけない きみとの別れ わけもなく溢れる涙 冬空を仰いで 叫ぶ なぜ そんなに急いで ぼくに黙って 逝ったんだ 逝くなら ぼくが 先きだろう せめて さいごの別れに 好きだった花を手向けたかったよ きみの手を しっかと握って 別れの言葉をかけたかった Yちゃん 有り難う って 言いたかったよ 独り 風の小径に来て 寒空を仰ぎ 呟いている ![]()
2010年 11月 25日
童謡「里の秋」をHPトップにUPした。
この曲は多くのひとに今もって親しまれとる。ただ、日本の秋の風景の歌やと思われとるけど、そうやないんさなあ。この歌は、終戦後すぐに生まれてヒットしたんやが、それには訳けがあるんや。 ぼくも、この歌を聞いて、歌うたんびに、胸にじ~んとくるものがあった。このごろは、歳の所為か、えろう涙もろうなって、歌いながら泣くこともあるんやんな。 この歌は、NHKが戦後すぐに、外地から復員してくる兵隊さんや、引き揚げてくる人々を慰め,、励ますために始めたラジオ特別番組で、童謡歌手川田正子が歌うた歌で、昭和20年12月の末に放送され、大ヒットした歌なんや。 ![]() ![]() ぼくの家には、その頃ラジオは無かったけど、ちまたに流れるこの歌を聴いては、戦争が終わっても、帰ってこん父さんを、母さんと妹とで待ちわびて、よう口ずさんだもんやった。 あの頃、戦争が終わって、復員して来る兵隊さんに、敗残兵やいうて石投げる人がおったんやんな。そんなん見ては、ぼくは子供ながらに心痛めたもんや。つい、先だってまで、日の丸の旗振って送り出してもろて、お国のために、いのち賭けて戦うとった兵隊さんにやんな、なんちゅうことするんや、戦争に負けたんは兵隊さんの所為とはちゃ~うやろ。一体これはなんや?って、十や十一の子でも腹立ったんな。 兵隊さんも心や体に疵負うて帰っておいでたんやし、父や夫が未だ帰らん家庭では、一日千秋の思いで待っとるのに無茶な話やで。戦争もすんだんや、無事に早う帰って来て欲しい思う家族の気持ちも、当たり前のことやろ。 兵隊さんばっかやない、大陸や各地においでた民間人も苦労して引き揚げておいでたんやんな。婦女子は髪も切って顔に泥塗って偽装して、逃げるように帰ったということも耳にした。 復員してきても、引き揚げてきても、住む家もない、食べるものも、ほかの物資も不足しとった酷い時代やった。せやもんで、縁者の少ないうちの子らは、ほいと(乞食)の子や言うて、いじめられたって聞いたこともあるんな。ほんなことしとって、恥ずかしゅう思わなんだんかと思うわ。こんなことでは、あかんわさ~。 敗戦で、人のことなどかまうどころか、手前さえよければええ、いうふうに、みんなの心がめっちゃすさんどったんやろな。戦争の所為やわさ。 こんな時代やから、この歌が大勢のひとの心をうったんやろと思う。あの、酷い時代の苦しさを味わった人は、もう少のうなったけど、いまなお、歌い継がれとるというんは、心打つ歌やでやんな。 この名曲には、また、エピソードがあるんさなあ。 これはNHKが、音羽ゆりかご会の海沼 実に作曲依頼をし、斎藤 信夫が作詞したんやが、戦争勃発の年に斎藤が作詞した「星月夜」という、いうたら戦意昂揚の歌が元歌やったんや。その三番、四番は"父さんも元気で、南洋の島守ってや~、ぼくらも、早う大きゆうなり、兵隊さんになってお国のため懸命に尽くします"いう詩やったそうや。 ぼくらも、父さんがおらん寂しさはあっても、戦争には勝つもんやと信じて、同じ思いやったもんなあ。本気で予科練へ行く気いやったんや。そんな教育受けとったやもん。それが、敗戦ででんぐりかえってしもたんや。 まあ、そんなことで、急遽「星月夜」の歌詞を変える事になった。そして、一番と二番は「星月夜」の歌詞そのままにして、今のお父さんの帰国の無事を祈る、という歌詞を三番に書き換えたんやそうや。できたんは、放送当日、浦賀に第一号の復員船が入港する日いぎりぎりやったそうなんやて。この歌がラジオから流れたとたん、NHKの電話のベルが鳴り続けたちゅう話や。ようけの人の心を揺さぶったんやなあ。 名曲ちゅうのは、いつも曰くつきなんやなあ。 それでは、当時のやないけど、川田正子さんの歌で「里の秋」」聞いてもらおかな ♪。 作詞した 斎藤 信夫は、もと教師やったそうで、元歌作った頃、生徒にお国のために死ね、ちゅうて教えとったわけやからな、自分を恥じ、責任感じてそのころは教師を辞めとったそうや。 この歌が縁で作詞家にはなったけど、芸能界の水は合わん言うて辞め、又教師になったって言う話や。そんな思いがこもった歌や、このうたは。 この歌の底に流れとる「戦争は悲しい!二度とごめんや」いう思いは、歌といっしょに伝えていかな あかん思うわ。
2010年 11月 18日
このブログ、当初は伊勢弁で始めたのを、すっかり忘れてしもうとった。伊勢弁で書くと、おんなじことでも柔らこうなる。やっぱり、なるべく伊勢弁で書くことにするわな。
さて、今日書こかちゅうのは、龍馬も惚れたという日本の夜明けに欠かせん人物の一人、勝海舟に因んだ話や。 断っておくが、ボクは学者でもないし、小説家でもない。いつもそうやが、ボクのいうことは、雑学と自分流の解釈で、きわめてアバウトや、と言うことや。 ただ、こんなもんを書こか思うたんは、龍馬もそうやが、べつに若いときから特段彼らに心酔してきたわけやないけど、最近話題になる彼らのことを知ると、比べもんにはならんが、不思議と自分の生きざまや考えに、よう似とるとこがあるなと、思うたもんでな。 大法螺吹きやったとも言われる勝さん、例えば、おこないはおれのもの、批判は他人がするもの、おれの知ったことじゃない、とうそぶき、図太く構えている。龍馬も辞世の句で「世のなかの ひとは、なにとも言わば言え、我がなすことは 我のみぞ知る」と同様の事を言い遺している。武者小路実篤の「この道より我を生かす道はなし この道をゆく」は、前に引き合いに出した。武蔵が、神仏は敬うが、神仏には頼らず、われが事をなすにおいては悔いず、というとるわなあ。これも同意や。禅にまなんどるんやな。頑固で愚直やといえば言える。一方でまた、勝は言うとる。自分の価値は、自分で決めることさ。いくら辛くても、貧乏しても、自分で自分を殺すようなことはしちゃ~いけね~よ、と。また、事を成すには、愚直でなけりゃ~いかん、才走ってはうまくいかん、それになんでも大胆にならんといかん、難しかろうが、周りがどう思おうが、無我の境地に入って断行するに限る。とも言うとるんな。これは自分を信じとるいうことやし、プライドでもあるわな。 さらに学ぶべきは、井の中の蛙ではあかん、外にでれば視野が広がる、そうすりゃ固定的な常識を超えた考えも生まれる、と言うとることさな、一歩も二歩も高見に立ていうことやわなあ。 そこにはやな、世間の評判気にかけたり、他人の顔色伺うたりはせんで、狭い世間の常識や、固定的な考えに縛られやん、大きゅう目え開いたオトコのスケールの大きさが窺えるちゅうもんさ。龍馬も一緒やないか。 ![]() 私事になるけども、ぼくが若い頃、まだ鉄のカーテン(ソ連の鎖国状態を言った)が開いて間もないソ連(今のロシア)を約一ヶ月にわたって訪れた事があったんや。出かけるとき、会社の創設者であるH氏が1$なんセントかの餞別(1$なにがしかの餞別には正直がっかりしたけどナ)をくれて「病気をせんと帰って来たら80点や、大陸でしょんべん(小便)してくるぐらいの気持ちで行ってこい」と言うて緊張を解いてくれた。フツーなら、またとない機会や、しっかり見てこいの、勉強してこいの、言うのに、そんな事一切言わなんだのには、びっくりした。やはり「禅」に関わっておった人やったんや、これは俗物やないなと感心した記憶があるわな。 ぼくの嘗ての上司?、親方やった人は無学ではあったけれども、いわゆる常識を超えたスケールの大きさと優しさがあって、私は尊敬しとったし、多くを学んだ。 今と違うて、嘗ての土木現場なんて、いろんな人間が出入りする職場や。それでも、どんな人間であろうと、来る者は拒まず、去る者は追わず、を通した人やった。彼は、恒に変わらず無私無欲で、差別なく人の面倒トコトンン見た人やった。厳しいけども、ふところが大きく、優しい心の持ち主でもあったなあ。 ![]() また、社会の事は学問をして分かるもんやない、社会で体験して分かるし、自分の考えも固まる、とも言うとるがな。世間で、さすが苦労人や、というのはこうした人たちのことやんな。 勝は、心すべき生き方として「超然(世俗的なことにこだわらない)」「靄然(心持ちを柔らかく保つ)」「澄然(心が清く澄みわたっている)」「断然(きっぱりとしている)」「泰然(物事に動じない)」の、五つの然(状態)を言うとるにな。これは、茶道の心とされとる「四規」の「和敬清寂」に通じる。まあ、おんなじやわなあ。これも、もともとは禅語やし、勝が自分流に言うとるだけのことやと思うわ。 そうあるべし、そうありたいと思う大事なことやけど、身に付くのはなかなか容易ではないわな。 しかも、ある意味で世間の常識に逆らうわけやから、一般には容易には受け入れられへんし、批判もされる。疎ましがられ、時には敵もつくる事になり、いのちを狙われる。龍馬も、勝もそうやった。 それでも、敵は多い方がええ、ちゅうて、自分の夢や信念を曲げなんだんはスゴイなあ。 そんな勝が、外の事はどうにでもなるが、うちの中は難しいと、意外と気弱な一面も見せとるんやな。まあ、家族は大事やということを言うとるんやけどなあ。事実、晩年は子供の不幸や孫の非行のことで随分悩んだらしい。 76歳で此の世を去るとき遺したことばが、 「コレデオシマイ 」や。 傑作やなあ。
2010年 11月 15日
異常に暑い夏がやっと去って、さわやかな秋がきたかと思えば、もう急ぎ冬支度にかからんとあかんような気配や。
夕方になってから、久しぶりに風の小径でもふらついて来るかと、なまくらな身に言い聞かせて、出かけようとしたら、俄に雲行きが怪しなってきたんな。 ![]() ![]() 秋の暮 水中もまた 暗くなる 誓子 日頃、何気なしに気は付いて見てはおるが、こ寒い秋の暮れの黄昏時のようすを、こうして詠むというところは、さすが俳人やなあ。 寒い雲がいそぐ 山頭火 月が急ぐのか?雲が急ぐのか?まだ日暮れには少し間があるのに、走る暗い雲のあいだから月が時折姿を見せる。 ![]() 時々、冷たい風が吹いて来る。もう、秋風ちゅうようなもんやないな。これは木枯らしやで。やはり、しぐれてきたわな。 口に出て わが足急ぐ 初しぐれ 波郷 うしろすがたの しぐれてゆくか 山頭火 ![]() 居場所がなく、再び旅にでる山頭火の自嘲の句やな。 < 前のページ次のページ >
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||