2009年 10月 08日
石ころは語る(アートはハート) |
ぼくは、アマチュア画家を名乗って居る。それは、これまで作品をカネに変えて食っていく必要も、その意志もなかったことと、愉しんで描きたいものを描きたいからにほかならない。感動を人にも伝えたい。芸術とは本来そういうものだと思っているから…。
此処に河原で拾ったわずか10センチほどの石ころがある。これでも、絵になる。
芸術の秋である。ぼくは、美術学校で絵を習った訳ではないが、日本の美術界の体質に批判的で、あえて媚びる必要も無いので、自分の描きたいものを自由に描いている。だから、ウラも知らず賞取りに一喜一憂する様子を見ていると、気持ちは分かるが、滑稽にさえ思えて来る。見栄や名声を得たい思いの隙間から、カネの目論見がちらちらしたりすると実に見苦しい。それに日本では、社会的名声と、真価とは別物だと言うことが分からないらしい。
近年、ぼくは海外に出展する事が多いが、海外では、社会的地位や名声とは関係なく作品の真価を評価してくれるから嬉しい。
ところが一方で、ぼくを妬む輩がでてきたり、絵を売らないことで変人扱いする声が耳に入って来たりする。放っておいてくれと言いたい。オレの自由じゃないか、と言いたくなる。
ぼく自身は世俗の栄誉やカネには無頓着な方だが、通俗的な名声と真価を同一視するような社会通念は軽薄だと思うから、嫌悪する。だから、本音をいう。本音を言うと煙たいと思う人からは鬱陶しがられる。
こうした事は私生活でも、世俗に迎合しないぼくの考えや、生きざまは、非常識扱いにされ、非難されたりして、はなはだ迷惑な事がある。
ぼくは、この歳までいろんな辛酸を舐めて来たから、多少の事は笑って済ます度量は持っている。
だが、人には優しく自分には厳しく生きて来て、いわゆる恥も外聞もあまり気にもとめず、生真面目過ぎるほど、自分に正直な生きざまを、損な性分と見られる事はいっこうに構わないが、価値観の問題としてはとらえず、ときとして誤解され、身勝手ととられるのは、腑におちないし、我慢ができない。我慢できないから、言わなくても好いこともつい言ってしまって、自己嫌悪に陥ったりもする。
夫婦間でもそうだ。よそ様の事は知らぬが、分かり合っているつもりでも、どうしても噛み合わぬこともある。大抵の事は言い争っても下らんと思うから妥協するが、自分に正直であろうとすると、そうはいかぬ事もある。
要するに、ぼくは安直な社会通念や情感に妥協出来ない愚直な男なのであろう。
ある日、気晴らしに子供のころからなじみ深い、近くの雲出川に出かけ、半日遊んだ。
土手で仰向けに寝て、流れる雲を眺めていると、あんなことで腹をたてたり悩むなんて、詰まらん事だと思えて来る。小さい頃雲の動きに夢を描いたように心が豊かになる思いがする。残り少ない人生、雲に我が思い託して、本音で我が径ゆけばいいのだと、思えて来る。
河原で石ころを拾いだしたら、これがまた、きりがない。いろんな石があって夢がふくらむ。それに石ころが語りかけてくれるのだ。 石ころを手に夢想していると、大宇宙が見えて来るから不思議である。我が身を包むせこい、煩わしい雑音など気にしなければ好いのだと思えてくる。
愛する人に、自分の気持ちを託して石ころを送る「石文(いしぶみ)」という風習があることを、先に評判になった映画「おくりびと」で知った。石ころには、そんな無限の魅力がある。石ころが、真のこころを伝えるのだ。 石ころ一つひとつに表情もある。時間も経つのも忘れ、這いずり回って気に入った石ころを探す。
30個くらいは拾っただろうか。
一つひとつ眺めるのも楽しいが、二つ三つと、ちょっと組み合わせて見ると、結構おもしろい。これはアートだ。
石ころが語りかけてくれる、大宇宙に思いを馳せるアートだと思った。アートはハートなのである。
芸術の秋である。ぼくは、美術学校で絵を習った訳ではないが、日本の美術界の体質に批判的で、あえて媚びる必要も無いので、自分の描きたいものを自由に描いている。だから、ウラも知らず賞取りに一喜一憂する様子を見ていると、気持ちは分かるが、滑稽にさえ思えて来る。見栄や名声を得たい思いの隙間から、カネの目論見がちらちらしたりすると実に見苦しい。それに日本では、社会的名声と、真価とは別物だと言うことが分からないらしい。
近年、ぼくは海外に出展する事が多いが、海外では、社会的地位や名声とは関係なく作品の真価を評価してくれるから嬉しい。
ところが一方で、ぼくを妬む輩がでてきたり、絵を売らないことで変人扱いする声が耳に入って来たりする。放っておいてくれと言いたい。オレの自由じゃないか、と言いたくなる。
ぼく自身は世俗の栄誉やカネには無頓着な方だが、通俗的な名声と真価を同一視するような社会通念は軽薄だと思うから、嫌悪する。だから、本音をいう。本音を言うと煙たいと思う人からは鬱陶しがられる。
こうした事は私生活でも、世俗に迎合しないぼくの考えや、生きざまは、非常識扱いにされ、非難されたりして、はなはだ迷惑な事がある。
ぼくは、この歳までいろんな辛酸を舐めて来たから、多少の事は笑って済ます度量は持っている。
だが、人には優しく自分には厳しく生きて来て、いわゆる恥も外聞もあまり気にもとめず、生真面目過ぎるほど、自分に正直な生きざまを、損な性分と見られる事はいっこうに構わないが、価値観の問題としてはとらえず、ときとして誤解され、身勝手ととられるのは、腑におちないし、我慢ができない。我慢できないから、言わなくても好いこともつい言ってしまって、自己嫌悪に陥ったりもする。
夫婦間でもそうだ。よそ様の事は知らぬが、分かり合っているつもりでも、どうしても噛み合わぬこともある。大抵の事は言い争っても下らんと思うから妥協するが、自分に正直であろうとすると、そうはいかぬ事もある。
要するに、ぼくは安直な社会通念や情感に妥協出来ない愚直な男なのであろう。
ある日、気晴らしに子供のころからなじみ深い、近くの雲出川に出かけ、半日遊んだ。
土手で仰向けに寝て、流れる雲を眺めていると、あんなことで腹をたてたり悩むなんて、詰まらん事だと思えて来る。小さい頃雲の動きに夢を描いたように心が豊かになる思いがする。残り少ない人生、雲に我が思い託して、本音で我が径ゆけばいいのだと、思えて来る。
河原で石ころを拾いだしたら、これがまた、きりがない。いろんな石があって夢がふくらむ。それに石ころが語りかけてくれるのだ。
30個くらいは拾っただろうか。
一つひとつ眺めるのも楽しいが、二つ三つと、ちょっと組み合わせて見ると、結構おもしろい。これはアートだ。
石ころが語りかけてくれる、大宇宙に思いを馳せるアートだと思った。アートはハートなのである。
by kentians
| 2009-10-08 22:22
| 自然