2010年 04月 11日
山笑う |
「山笑う」という言葉がある。季語にもなっているが、今の山を見ていると、サクラがあちこちに咲いていて、そこのとこのろだけ、淡いうす紅色で山が嗤っているように見える。これが、ほかの色だとそうはいかない。
サクラって、日本人の心にすごいイメージを与えて居るのだな?と、改めて思う。
今日も、暖かいし、寒い間散歩もなまくらしていたので、気晴らしと、運動?を兼ねて、いつもの「風の小径」へでかけた。
もう,散り始めているが、通り道の賢明寺のサクラを観る。 お井戸の坂を下る。 荒れた竹藪には、もうこんなにのびたタケノコが…。藪ウグイスが巧く鳴くようになったな、と、にんまりとしつつ、坂道を下る。 眼の前の木の切り株に、カップルのトカゲが現れたが、雌は警戒してすぐ隠れ、雄が威嚇するように睨んでいる。ナニも邪魔なんかしやしないよ、と声を掛け坂道を下る。田圃に出る。
視野が広がり、正面の布引山は今朝は霞のなかで、冴えてさえおれば見える風車も見えないが、左に眼を転じると、冒頭の「山笑う」様子が迫って見える。 「山笑う」という言葉の出典は、中国北宋の画人郭熙が画論「臥遊録」の四時山のなかで、「春山淡冶而如笑、夏山蒼翠而如滴、秋山明浄而如粧、冬山惨淡而如睡」と絵画の極意を説いているのによっている。要は、春山は淡くして嗤うがごとくに、夏山はみどりしたたるがごとくに、秋山は明浄にして粧うがごとく、冬山は惨淡として眠るがごとく、に描けと、説いているのであるが、春山の芽吹き始めた山の風情と、冬のの寂しさを表したものものだろう。
日本人は、中国のこの画論を日本の四季に当てはめて、春は、芽吹き時のわかば色の中に、淡い色のサクラが咲いている山模様を、山笑うと詠んだので有ろう。日本人にとってサクラってすごいものなんだなと、思う。
また、サクラ咲く、の咲くという字は、もとは笑うと言う語意があるらしく、山咲うとも書くというし、笑うには蕾やほころぶと言う意味も有るようだ。おもしろいね。
菜のはな、レンゲ(ぼくらはゲンゲと言ったなあ)が咲き乱れている。路傍にはいくつかの「根性草」がコンクリートの割れ目から精を出して居る。 揚げひばりの、さえずりに誘われて、農道をさらに行く。
地上にも何羽かのひばりの姿が見える。 ホバリングしているひばりの様子を辛抱強く眺め、雛が見たさに彼らの巣を見つけてやろうと、急降下して来た位置を目指して、行くのだが、なかなか見つからない。彼らは利口だ。巣の近くには降りないのだね。根比べだと、近くの畦に腰を下ろして回りの草花を見やっている。
山笑う風情を味わい、咲き乱れる草花と戯れていると、異常気象といわれながらも、自然界には着実に移ろう季節が訪れてきていて、春の彩りを見せてくれるなあと、実感する。
結局は、ひばりの住まいは、見つからず、大空にさえずる声をききながら、重い足を引きずって家路についた。やはり、結果的にはそっとしておいてやって好かったのかも知れぬ、とつぶやきながら…。
サクラって、日本人の心にすごいイメージを与えて居るのだな?と、改めて思う。
今日も、暖かいし、寒い間散歩もなまくらしていたので、気晴らしと、運動?を兼ねて、いつもの「風の小径」へでかけた。
もう,散り始めているが、通り道の賢明寺のサクラを観る。
視野が広がり、正面の布引山は今朝は霞のなかで、冴えてさえおれば見える風車も見えないが、左に眼を転じると、冒頭の「山笑う」様子が迫って見える。
日本人は、中国のこの画論を日本の四季に当てはめて、春は、芽吹き時のわかば色の中に、淡い色のサクラが咲いている山模様を、山笑うと詠んだので有ろう。日本人にとってサクラってすごいものなんだなと、思う。
また、サクラ咲く、の咲くという字は、もとは笑うと言う語意があるらしく、山咲うとも書くというし、笑うには蕾やほころぶと言う意味も有るようだ。おもしろいね。
菜のはな、レンゲ(ぼくらはゲンゲと言ったなあ)が咲き乱れている。路傍にはいくつかの「根性草」がコンクリートの割れ目から精を出して居る。
地上にも何羽かのひばりの姿が見える。
山笑う風情を味わい、咲き乱れる草花と戯れていると、異常気象といわれながらも、自然界には着実に移ろう季節が訪れてきていて、春の彩りを見せてくれるなあと、実感する。
by kentians
| 2010-04-11 20:56
| 自然