2010年 11月 25日
「里の秋」 夜話 |
童謡「里の秋」をHPトップにUPした。
この曲は多くのひとに今もって親しまれとる。ただ、日本の秋の風景の歌やと思われとるけど、そうやないんさなあ。この歌は、終戦後すぐに生まれてヒットしたんやが、それには訳けがあるんや。
ぼくも、この歌を聞いて、歌うたんびに、胸にじ~んとくるものがあった。このごろは、歳の所為か、えろう涙もろうなって、歌いながら泣くこともあるんやんな。
この歌は、NHKが戦後すぐに、外地から復員してくる兵隊さんや、引き揚げてくる人々を慰め,、励ますために始めたラジオ特別番組で、童謡歌手川田正子が歌うた歌で、昭和20年12月の末に放送され、大ヒットした歌なんや。 一番は、「しずかなしずかな 里の秋~」で始まって、おかあさんと二人で過ごす、里の秋の親子の家の様子、二番は「明るい明るい 星のそら~ 」で始まる、澄んだ星空と渡り鴨の鳴き声に、戦争にいって留守のお父さんへの思いを歌うとる。三番は、南方から、いまだ帰らんお父さんの無事を祈る、という歌詞やわなあ。
ぼくの家には、その頃ラジオは無かったけど、ちまたに流れるこの歌を聴いては、戦争が終わっても、帰ってこん父さんを、母さんと妹とで待ちわびて、よう口ずさんだもんやった。
あの頃、戦争が終わって、復員して来る兵隊さんに、敗残兵やいうて石投げる人がおったんやんな。そんなん見ては、ぼくは子供ながらに心痛めたもんや。つい、先だってまで、日の丸の旗振って送り出してもろて、お国のために、いのち賭けて戦うとった兵隊さんにやんな、なんちゅうことするんや、戦争に負けたんは兵隊さんの所為とはちゃ~うやろ。一体これはなんや?って、十や十一の子でも腹立ったんな。
兵隊さんも心や体に疵負うて帰っておいでたんやし、父や夫が未だ帰らん家庭では、一日千秋の思いで待っとるのに無茶な話やで。戦争もすんだんや、無事に早う帰って来て欲しい思う家族の気持ちも、当たり前のことやろ。
兵隊さんばっかやない、大陸や各地においでた民間人も苦労して引き揚げておいでたんやんな。婦女子は髪も切って顔に泥塗って偽装して、逃げるように帰ったということも耳にした。
復員してきても、引き揚げてきても、住む家もない、食べるものも、ほかの物資も不足しとった酷い時代やった。せやもんで、縁者の少ないうちの子らは、ほいと(乞食)の子や言うて、いじめられたって聞いたこともあるんな。ほんなことしとって、恥ずかしゅう思わなんだんかと思うわ。こんなことでは、あかんわさ~。
敗戦で、人のことなどかまうどころか、手前さえよければええ、いうふうに、みんなの心がめっちゃすさんどったんやろな。戦争の所為やわさ。
こんな時代やから、この歌が大勢のひとの心をうったんやろと思う。あの、酷い時代の苦しさを味わった人は、もう少のうなったけど、いまなお、歌い継がれとるというんは、心打つ歌やでやんな。
この名曲には、また、エピソードがあるんさなあ。
これはNHKが、音羽ゆりかご会の海沼 実に作曲依頼をし、斎藤 信夫が作詞したんやが、戦争勃発の年に斎藤が作詞した「星月夜」という、いうたら戦意昂揚の歌が元歌やったんや。その三番、四番は"父さんも元気で、南洋の島守ってや~、ぼくらも、早う大きゆうなり、兵隊さんになってお国のため懸命に尽くします"いう詩やったそうや。
ぼくらも、父さんがおらん寂しさはあっても、戦争には勝つもんやと信じて、同じ思いやったもんなあ。本気で予科練へ行く気いやったんや。そんな教育受けとったやもん。それが、敗戦ででんぐりかえってしもたんや。
まあ、そんなことで、急遽「星月夜」の歌詞を変える事になった。そして、一番と二番は「星月夜」の歌詞そのままにして、今のお父さんの帰国の無事を祈る、という歌詞を三番に書き換えたんやそうや。できたんは、放送当日、浦賀に第一号の復員船が入港する日いぎりぎりやったそうなんやて。この歌がラジオから流れたとたん、NHKの電話のベルが鳴り続けたちゅう話や。ようけの人の心を揺さぶったんやなあ。
名曲ちゅうのは、いつも曰くつきなんやなあ。
それでは、当時のやないけど、川田正子さんの歌で「里の秋」」聞いてもらおかな ♪。
作詞した 斎藤 信夫は、もと教師やったそうで、元歌作った頃、生徒にお国のために死ね、ちゅうて教えとったわけやからな、自分を恥じ、責任感じてそのころは教師を辞めとったそうや。
この歌が縁で作詞家にはなったけど、芸能界の水は合わん言うて辞め、又教師になったって言う話や。そんな思いがこもった歌や、このうたは。
この歌の底に流れとる「戦争は悲しい!二度とごめんや」いう思いは、歌といっしょに伝えていかな あかん思うわ。
この曲は多くのひとに今もって親しまれとる。ただ、日本の秋の風景の歌やと思われとるけど、そうやないんさなあ。この歌は、終戦後すぐに生まれてヒットしたんやが、それには訳けがあるんや。
ぼくも、この歌を聞いて、歌うたんびに、胸にじ~んとくるものがあった。このごろは、歳の所為か、えろう涙もろうなって、歌いながら泣くこともあるんやんな。
この歌は、NHKが戦後すぐに、外地から復員してくる兵隊さんや、引き揚げてくる人々を慰め,、励ますために始めたラジオ特別番組で、童謡歌手川田正子が歌うた歌で、昭和20年12月の末に放送され、大ヒットした歌なんや。
ぼくの家には、その頃ラジオは無かったけど、ちまたに流れるこの歌を聴いては、戦争が終わっても、帰ってこん父さんを、母さんと妹とで待ちわびて、よう口ずさんだもんやった。
あの頃、戦争が終わって、復員して来る兵隊さんに、敗残兵やいうて石投げる人がおったんやんな。そんなん見ては、ぼくは子供ながらに心痛めたもんや。つい、先だってまで、日の丸の旗振って送り出してもろて、お国のために、いのち賭けて戦うとった兵隊さんにやんな、なんちゅうことするんや、戦争に負けたんは兵隊さんの所為とはちゃ~うやろ。一体これはなんや?って、十や十一の子でも腹立ったんな。
兵隊さんも心や体に疵負うて帰っておいでたんやし、父や夫が未だ帰らん家庭では、一日千秋の思いで待っとるのに無茶な話やで。戦争もすんだんや、無事に早う帰って来て欲しい思う家族の気持ちも、当たり前のことやろ。
兵隊さんばっかやない、大陸や各地においでた民間人も苦労して引き揚げておいでたんやんな。婦女子は髪も切って顔に泥塗って偽装して、逃げるように帰ったということも耳にした。
復員してきても、引き揚げてきても、住む家もない、食べるものも、ほかの物資も不足しとった酷い時代やった。せやもんで、縁者の少ないうちの子らは、ほいと(乞食)の子や言うて、いじめられたって聞いたこともあるんな。ほんなことしとって、恥ずかしゅう思わなんだんかと思うわ。こんなことでは、あかんわさ~。
敗戦で、人のことなどかまうどころか、手前さえよければええ、いうふうに、みんなの心がめっちゃすさんどったんやろな。戦争の所為やわさ。
こんな時代やから、この歌が大勢のひとの心をうったんやろと思う。あの、酷い時代の苦しさを味わった人は、もう少のうなったけど、いまなお、歌い継がれとるというんは、心打つ歌やでやんな。
この名曲には、また、エピソードがあるんさなあ。
これはNHKが、音羽ゆりかご会の海沼 実に作曲依頼をし、斎藤 信夫が作詞したんやが、戦争勃発の年に斎藤が作詞した「星月夜」という、いうたら戦意昂揚の歌が元歌やったんや。その三番、四番は"父さんも元気で、南洋の島守ってや~、ぼくらも、早う大きゆうなり、兵隊さんになってお国のため懸命に尽くします"いう詩やったそうや。
ぼくらも、父さんがおらん寂しさはあっても、戦争には勝つもんやと信じて、同じ思いやったもんなあ。本気で予科練へ行く気いやったんや。そんな教育受けとったやもん。それが、敗戦ででんぐりかえってしもたんや。
まあ、そんなことで、急遽「星月夜」の歌詞を変える事になった。そして、一番と二番は「星月夜」の歌詞そのままにして、今のお父さんの帰国の無事を祈る、という歌詞を三番に書き換えたんやそうや。できたんは、放送当日、浦賀に第一号の復員船が入港する日いぎりぎりやったそうなんやて。この歌がラジオから流れたとたん、NHKの電話のベルが鳴り続けたちゅう話や。ようけの人の心を揺さぶったんやなあ。
名曲ちゅうのは、いつも曰くつきなんやなあ。
それでは、当時のやないけど、川田正子さんの歌で「里の秋」」聞いてもらおかな ♪。
作詞した 斎藤 信夫は、もと教師やったそうで、元歌作った頃、生徒にお国のために死ね、ちゅうて教えとったわけやからな、自分を恥じ、責任感じてそのころは教師を辞めとったそうや。
この歌が縁で作詞家にはなったけど、芸能界の水は合わん言うて辞め、又教師になったって言う話や。そんな思いがこもった歌や、このうたは。
この歌の底に流れとる「戦争は悲しい!二度とごめんや」いう思いは、歌といっしょに伝えていかな あかん思うわ。
by kentians
| 2010-11-25 16:46
| こころの詩