2014年 01月 26日
アートあれこれ(第1回) |
久しぶりに 芸術に関する思いのあれこれを気ままに綴ってみようかと思います。
私は、いわゆる南画を基本とする墨にこだわる絵画を中心に、いろいろな「芸術活動」に携わってはいますが、生業にしているわけではなく、あくまでもアマチュアです。
プロでなく、アマチュアとはいえども、甘えは赦されないと言う自覚はありますから、一応の知見はもっているつもりです。
ただ、学校で学識を得た訳ではないので、ピント外れで生意気なと思われることもあるかも知れませんが、そこは素人のつぶやきだと思って寛容に願いたいと思います。
また、論文ではないので、思いつくまま気の向くままにすすめるので、文脈についても拙い点はご容赦頂きたい。
ここで言う芸術は、主として創作に属するものをいい、伝統芸能なんかはこの際触れません。
よく、絵画、彫刻、工芸や書、写真にいたるいわゆる美術から、音楽や文芸にしても、何処が良いのか、なにが良いのか?よく分からないと言われることがあります。
別に分からなくても好い、という見解もあることはあるけれども、自らの表現したものを公開する以上、基本的には、多くの人に分かって貰えなければ、まず意味のないことではないか。
そこで明らかにしておきたいのは、創作とはなにか、ということです。
創作するということは、作者の感動や思いや、イメージなどの情報を自らの手で表現し、第三者に伝える行為です。感性で受け止めた内なるものを再現すること、といってもいい。
その意図するところは、発する側と受ける側とが、その情報を共有することではないかと思います。
いくら素材が良かろうが、技巧的であろうが、出し手と受け手が情報を共有出来なければ、独りよがりと言われ意味がない。
こういうことから、これら芸術一般の善し悪しの基準は、好きずきもあるでしょうが、まず次の五点ではないでしょうか。
その第一は、目的やテーマ(主題)が明確であること
第二は、本質に迫り、清明であること
第三は、独創性のあること(オリジナル)
第四は、構想、構図のよいこと
第五は、表現技術がすぐれていること
目的、と言うと異論もあります。
それは、良く国威発揚や戦意昂揚のためのプロパガンタへの批判ですが、創作のメッセージ性の観点からいえば、商業広告同様に広範囲のアートに含めるべきだと思います。
テーマの明確であることは、説明を要しないと思います。
第二は、うわべだけでなく、本質を掬い取るような表現であり、清明で気品があること、すなわち好感が得られ、分かりやすいことではないか、と思います。
南画の特質の一つは、至高の気品、純粋な精神性にあると言われています。
公序良俗に反するものは、当然認められないでしょう。
南画では、絵画に必要な要素のひとつに、気韻生動(気品があって、生き生きとしていること)を揚げています。
このことについて、むかしから創作者の人格と言うことが言われてきました。富岡鉄斎という南画家は「人格なきものの絵は、いかに巧みにきれいに描かれていても、三文の値打ちもない」言ったといいます。きれいと美しいが違う以上に、きれいだから好い絵とはいえない、ということでしょう。
第三は、模倣、まねごとではいけない、ということです。
アマチュアでも、プロを目指すものでも、最初は先人や指導者の模倣から学びますが、感性の発露である芸術であれば、やはり独自性が求められるのは当然であろう、と思います。
南画の特質は、発想の自由、構想の自由、表現技術の自由奔放など、型に縛られない自由さ、独自性にあると言えます。
第四の構成、構図については改めて言うまでもないことです。物語性、詩情のあるなしも同様かと思います。
第五は、上の四点を具現して作品とするためのテクニックであって、大切なものです。
技法は、天性の器用さとして備わっていたり、あるいは修練によって身につけることができますが、技巧に重きをおくと、単なる職人芸に墜ちて仕舞うのではないか、それでは創作とは言えないと思います。
昨今は一般的に技法の良さで、作品の価値が判断されがちであることを憂います。
今日は、芸術作品の良し悪しはどうして見分けるか、という観点から、創作とは何かを考えてみました。
私は、いわゆる南画を基本とする墨にこだわる絵画を中心に、いろいろな「芸術活動」に携わってはいますが、生業にしているわけではなく、あくまでもアマチュアです。
プロでなく、アマチュアとはいえども、甘えは赦されないと言う自覚はありますから、一応の知見はもっているつもりです。
ただ、学校で学識を得た訳ではないので、ピント外れで生意気なと思われることもあるかも知れませんが、そこは素人のつぶやきだと思って寛容に願いたいと思います。
また、論文ではないので、思いつくまま気の向くままにすすめるので、文脈についても拙い点はご容赦頂きたい。
ここで言う芸術は、主として創作に属するものをいい、伝統芸能なんかはこの際触れません。
よく、絵画、彫刻、工芸や書、写真にいたるいわゆる美術から、音楽や文芸にしても、何処が良いのか、なにが良いのか?よく分からないと言われることがあります。
別に分からなくても好い、という見解もあることはあるけれども、自らの表現したものを公開する以上、基本的には、多くの人に分かって貰えなければ、まず意味のないことではないか。
そこで明らかにしておきたいのは、創作とはなにか、ということです。
創作するということは、作者の感動や思いや、イメージなどの情報を自らの手で表現し、第三者に伝える行為です。感性で受け止めた内なるものを再現すること、といってもいい。
その意図するところは、発する側と受ける側とが、その情報を共有することではないかと思います。
いくら素材が良かろうが、技巧的であろうが、出し手と受け手が情報を共有出来なければ、独りよがりと言われ意味がない。
こういうことから、これら芸術一般の善し悪しの基準は、好きずきもあるでしょうが、まず次の五点ではないでしょうか。
その第一は、目的やテーマ(主題)が明確であること
第二は、本質に迫り、清明であること
第三は、独創性のあること(オリジナル)
第四は、構想、構図のよいこと
第五は、表現技術がすぐれていること
目的、と言うと異論もあります。
それは、良く国威発揚や戦意昂揚のためのプロパガンタへの批判ですが、創作のメッセージ性の観点からいえば、商業広告同様に広範囲のアートに含めるべきだと思います。
テーマの明確であることは、説明を要しないと思います。
第二は、うわべだけでなく、本質を掬い取るような表現であり、清明で気品があること、すなわち好感が得られ、分かりやすいことではないか、と思います。
南画の特質の一つは、至高の気品、純粋な精神性にあると言われています。
公序良俗に反するものは、当然認められないでしょう。
南画では、絵画に必要な要素のひとつに、気韻生動(気品があって、生き生きとしていること)を揚げています。
このことについて、むかしから創作者の人格と言うことが言われてきました。富岡鉄斎という南画家は「人格なきものの絵は、いかに巧みにきれいに描かれていても、三文の値打ちもない」言ったといいます。きれいと美しいが違う以上に、きれいだから好い絵とはいえない、ということでしょう。
第三は、模倣、まねごとではいけない、ということです。
アマチュアでも、プロを目指すものでも、最初は先人や指導者の模倣から学びますが、感性の発露である芸術であれば、やはり独自性が求められるのは当然であろう、と思います。
南画の特質は、発想の自由、構想の自由、表現技術の自由奔放など、型に縛られない自由さ、独自性にあると言えます。
第四の構成、構図については改めて言うまでもないことです。物語性、詩情のあるなしも同様かと思います。
第五は、上の四点を具現して作品とするためのテクニックであって、大切なものです。
技法は、天性の器用さとして備わっていたり、あるいは修練によって身につけることができますが、技巧に重きをおくと、単なる職人芸に墜ちて仕舞うのではないか、それでは創作とは言えないと思います。
昨今は一般的に技法の良さで、作品の価値が判断されがちであることを憂います。
今日は、芸術作品の良し悪しはどうして見分けるか、という観点から、創作とは何かを考えてみました。
by kentians
| 2014-01-26 20:52
| アートのはなし